型は、自由のためにある
木彫りに、正解はない
木彫りに、正解はありません。
けれど、何をしてもいいわけでもありません。
自由という言葉は、
ときどき誤解されます。
思いつくままに手を動かすこと。
偶然に任せること。
それを自由だと思ってしまうことがあります。
しかし本来、自由とは、
自分で選び取れるということです。
今、どの刃を入れるのか。
なぜ、そこを彫るのか。
そうした判断を、自分の意思で引き受けられる状態です。
型は、そのためにあります。
自由だと思われている木彫り
木彫りは、自由な表現だと思われがちです。
小学校の図工の延長のように、
「感じたまま彫るもの」
そんなイメージを持たれることも少なくありません。
どう彫ればうまくいくのか。
正しい彫り方とは何か。
そうした問いを、
最初から強く意識している人は、実は多くありません。
多くの場合、
考える前に手が動きます。
うまくいけば続け、
うまくいかなければ
「向いていない」と結論づけてしまいます。
判断が置き去りになるとき
そのとき、判断はどこにあるのでしょうか。
刃物が、どこから入り、
どこへ抜けていくのか。
力が、
身体のどこから生まれ、
どこへ流れているのか。
そこに意識が向く前に、
結果だけで良し悪しを決めてしまいます。
それは自由な表現というより、
無意識に近い状態です。
ホリビトが最初に覚える違和感は、
この「何となく」の中で、
判断そのものが置き去りにされていることです。
ホリビトが型から始める理由
ホリビトでは、
壱の型、弐の型から始めます。
それは、かたちを揃えるためでも、
作品を量産するためでもありません。
彫刻刀と身体の関係を、
一度、正確に整えるための土台です。
力で押せば彫れる、
という段階を越え、
刃先にどのように力が流れているのかを、
身体で理解するための準備でもあります。
型は、目的ではない
型を使うことが、目的ではありません。
むしろ、
型に頼らなくても判断できる状態へ向かうために、
最初に型があります。
型が身体に入ってくると、
無駄な力が抜けていきます。
迷いも、少しずつ減っていきます。
そして、
「今、何をしているのか」が
分かるようになってきます。
そこではじめて、
考える余裕が生まれます。
型があるから、考えられる
自由な表現という言葉から、
型のない状態を思い浮かべる人は多いかもしれません。
けれど、
型がないままでは、人は
癖や勢いに支配されやすくなります。
それは自由ではなく、無自覚です。
型とは、
自分の身体と刃物の関係を、
一度、構造として理解する行為です。
理解したうえで、
守るのか。
外すのか。
壊すのか。
それを選べるようになって、
はじめて自由になります。
技術は、姿勢として残る
壱の型、弐の型ができて完成ではありません。
あくまで入口にすぎません。
型を通して身につくのは、
技術そのものよりも、姿勢です。
観察する力。
集中する力。
冷静さ。
柔軟さ。
それらはすべて、
木を彫る以前に、
人としての在り方と深くつながっています。
だからホリビトでは、
うまく彫れることを
最終的な目標にはしていません。
型は、答えではない
ホリビトの型は、
口伝と実習を前提としています。
それは秘密にしたいからではありません。
言葉だけでは伝わらない領域が、
確かに存在するからです。
型は、答えではありません。
問いを立て続けるための、土台です。
どう彫るかではなく、
なぜ、今ここを彫るのか。
その問いを持ち続けるために、
型があります。
ホリビトが型を手放さないのは、
自由を手放したくないからです。
型は、自由のためにあります。








